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米田智彦「やりたいことと仕事が繋がった頃には30歳になっていた」 | 25zine

米田智彦

1973年、福岡市生まれ。大卒後、研究機関、出版社勤務を経て独立。フリーの編集者・ディレクターとして出版からウェブ、ソーシャルメディアを使ったキャンペーン、イベントまで多岐に亘る企画・編集・執筆・プロデュースを行う。2011年の約1年間、家財と定住所を持たずに東京という都市をシェアしながら旅するように暮らす生活実験「ノマド・トーキョー」を行い、オルタナティブな働き方・暮らし方の現場を実体験。2013年、『僕らの時代のライフデザイン』(ダイヤモンド社)を出版。http://nomadtokyo.com/

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一生のうちに可能な限りたくさんの「生」を経験したい

濱田:まずは米田さんが25歳の頃どんなことをしていたのか教えてください。

米田:25歳の頃は、報道機関の時事通信の社会部でアシスタントとしてアルバイトをするフリーターでした。当時僕は音楽をやっていて、大学を一浪一留して卒業したんだけど、在学中にとあるレコード会社から声が掛かっていたので、ミュージシャンになろうと思っていたんですよね。連絡をくれたレコード会社の人は、僕が当時日本では一番かっこいいと思っていたレーベルのディレクターだったの。「ここで出せないんだったら音楽を辞めよう」と思っていたら、ちょうど声を掛けてもらえたんですね。それが大学卒業するかしないかの時だったから、「これは運命かもしれない。やるしかない」と思って就職しなかった。

 でも音楽で食べていけるわけじゃなかったし、大学を出たからとりあえず働かなきゃと思って何社か自分が好きな雑誌を出している出版社のアルバイトの面接を受けたんだけど、全然受からない。経験もないし、学生じゃないから使いづらいわけです。どうしようかなって考えたときに、実は僕の父親が新聞記者だったから、まぁ新聞もありかなと思うようになって。 ちょうど時事通信で募集していたから応募して、アルバイトとして働き始めた。

濱田:そうだったんですね。ミュージシャンを目指していた米田さんが、その後どうして編集者として仕事をするようになったんでしょうか?

米田:昼は働いて、夜は稼いだお金で音楽作ってっていうのを4年間続けていたんだけど、なかなかデビューさせてもらえなくて、音楽の道は上手くいかなかったんだよね。それで30歳になる前に社会に出なければ俺はダメになるって思っていたから、28歳の時に会社を辞めて、音楽も辞めて、今まで付き合っていた音楽友達やバンドメンバーとの繋がりも全部切ったの。で、音楽以外だと本や雑誌が好きだから、編集の仕事をやれないかなって思うようになった。

 僕は音楽以外にも好きなことが色々あったんですね。政治、経済、文学、アート、映画。雑誌編集者って、グルメやファッションの特集も出来れば、経営者のインタビューも出来る。こんな面白い仕事はないって思って。 一つのことを突き詰める人生も美しいかもしれないけど、一生のうちにたくさんのことを経験したいんだよね。取材という名目があれば色んな人に会えるし、その人の秘密みたいなことをぽろっと話してもらえたりする。しかも資格とか要らない。雑誌編集者は色んな物に興味をもっていろと言われるジャンルだから、自分にはぴったりだと思って、こういう仕事がしたいと思っていた。でもここでも職歴ないから出版社には雇ってもらえなかったんだよね。それで結局、バイオインフォマティックスっていうバイオとスーパーコンピューターの研究所で広報の仕事をしてた。

濱田:どうして編集の仕事を目指していたのにバイオの世界へ……(笑)?

米田:当時のアメリカ大統領だったクリントンが、人のDNAの全てを解明するという有名な「ゲノム宣言」というのを発表したのね。ゲノムを全部解明して、アメリカは創薬の分野で世界をリードするって。僕はこのニュースにかなり衝撃を受けて、ITと並んで、バイオは21世紀にものすごい産業になると思った。

 その頃に出来たのが、僕が働いていたバイオの研究所。普通は地方公務員試験とか受かってないとスタッフにはなれないんだけど、出来たばかりだから一般の人からも非常勤という形で事務総務のスタッフの募集をしていて。でも俺は別に経理の仕事をしたいわけじゃないから、 「ここはこれから世界に向かって日本の技術力や研究成果を発信をしていく拠点になる。だからWebサイトを作ったりとか、ニュースレターを作ったり、プロモーションビデオを作ったり、広報的な仕事が必要なんじゃないですか?」って事務職の面接なのに、周到なプレゼンしたんです。面接を担当した所長とかはぽかーんとしてた(笑)。でも、「君みたいな人が来たのははじめてだよ、面白いね」って言ってくれて、そのお台場のセンターで1年くらい働くことになったの。役所だからお堅い仕事だったけど、センターを紹介するニュースレターを作ったり、サイトを作ったり、見学者の案内や通訳をやったりしてた。

 でも、やっぱり自分の中でこれはステップだなと思っていたんだよね。僕は研究者じゃないから、これをずっとやっていてはいけないってことに半年ぐらいで気付いて、やっぱり雑誌の仕事をしたいと思っていた。

やりたいことと仕事が繋がった頃には30歳になっていた

濱田:そこからどうやって雑誌の仕事が出来るようになったんですか?

米田:プライベートでハマっていた格闘技がきっかけだった。バンドの友達も全部切っちゃったし、新聞社の友達とも連絡を取らなくなっちゃったからやることがなくって、週末の夜に後楽園ホールでプロレスとか格闘技を観るようになったの。総合格闘技とK-1がちょうどブームになる前だったんだけど、それが凄く面白くて。本当に夢中になって毎週のように会場に行くようになった頃が、ちょうどスポーツ専門サイトが出始めた時期だった。そのうちにそのサイトをやっている人と仲良くなって、「選手の談話とか取ってみる?」って誘われて、すぐに「やります!」って言った。ここでようやくやりたいことと仕事というものが繋がったんだよね。それがきっかけで業界の人にも繋がりが出来て、出版社に誘ってもらうことが出来た。その頃はもう30歳になっていた。

やりたいことはいくつもやっていいし、だめでも戻ってくれば良い

濱田:今の仕事をやるようになるまで、ものすごく色んなことがあったんですね。

米田: うん、曲がりくねっていて、一直線じゃなかった。最初はミュージシャンになろうとしたけど上手くいかなくて、マスコミに勤めて、辞めて、日々悶々とした。何も見えない時期があって、特に音楽と社会部を辞めた28歳の時はやることがなくて、ただ走っていた。やりたいこともお金もないし、走るしかなかったんだよね(苦笑)。でも昼に走っていると、「こいつはなんでまっ昼間から走っているんだ?」って思われるんじゃないかと思う自意識があって、夜にこっそり走っていた。それもずっと走るの、2、3時間くらい。歩いたり、走ったりしてへとへとになってすぐ眠れるようにするために。その時は友達もひとりもいないし、音楽もしていないし、なんかよくわからないバイオっていう分野に来てしまって、本当に星しか友達がいなかった。星と会話してたもん(笑)。「あー、今日もいますね」って。星と相談してた。俺どうなるんだろ、俺の人生に収拾つくのかなって。「あーそうか、これがどん底っていうんだ」って思っていた。だって星しか友達がいないんだよ(笑)。

濱田:なかなか普通ではありえない人生ですよね(笑)。

米田:そう、だから今でも、現在までの道のりを話してもなかなか理解されない。一直線じゃないから、何がやりたいのかよくわからないとか、やっていることがバラバラで理解出来ないとか言われたりする。自分の中では、やりたいことをどうにかして仕事にしたいと思ってきたことに変わりはなかったんですけどね。でも、お医者さんになるとか、建築家になりたくて建築家のアシスタントからやったとか、まっすぐな道じゃなかったからね。

 でも別に、一つのことに一直線じゃなくたっていい。バスケット界のスーパースターのマイケル・ジョーダンは、若い人は知らないかもしれないけど、実は一時、野球をやっていたんですよ。バスケを辞めた後にメジャーリーグに入ろうとしていた。なぜかというと、彼の少年時代のもう一つの夢がメジャーリーガーだったから。さすがにもう歳だったから野球選手としてはだめだったけど、夢に生きたその魂がかっこいいよね。で、メジャーリーグに挑戦した後に、ジョーダンはバスケに戻ってきているんですよ。だからやりたいことはいくつもやっていいし、ダメでも戻ってくればいいと思うんですよね。

濱田:私も一直線じゃない道を進んでいるので心に染みます……。では最後に今25歳の人に向けてメッセージをお願いします。

米田:25歳の時はとにかく模索してみればいいと思います。ひとつのことにがむしゃらに取り組むのもいいけど、いくつもやってみるのもありなんじゃないかな。釣り糸を垂らさないと魚は捕れないし、打席に立たないとホームランは打てない。僕はなるべくたくさんのことを生きているうちに体験したいって思いはずっとあった。だから、今の編集という仕事は、たくさんの人の人生に出会えることが一番の喜びですね。

 それから、エリートとか強い人だけ勝つというのは、社会の一つの側面でしかなくて、それだけが良しとされる社会のあり方は僕は違うと思うし、固定観念をとりのぞけば、やり方はいくらでもある。英語が出来る、勉強ができるっていう人だけが生きていける世の中っておかしいでしょう。仕事なんていくらでもある。グローバル化とかのイメージに捕われないで、一度きりの人生、色んなことをを勝手にやってしまえばいいと思います。それをあきらめずに続けていれば、どこかに引っかかる。だって、社会が悪いと言ったり、他人を批判したり、暗いこと言っても自分の現状は何も変わらないからさ。

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