川内有緒

日大芸術学部卒。中南米地域の研究で米国で修士号を取得後、シンクタンクに勤務しつつ、世界の少数民族や辺境の地を訪ね、旅の記録を雑誌に発表。04年からは国連機関に勤務しながら気ままなパリ生活を謳歌。今はフリーランスで面白いヒト、モノ、コトに出会うためにウロウロしながら、記事やコラムを発表。著書に「パリでメシを食う。」「バウルを探して」(幻冬舎)。

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大学を出て、半年くらいぼんやりしていた。

濱田:川内さんは「パリでメシを食う。」「バウルを探して」とこれまでに2冊の本を書かれていますが、以前はコンサルティング会社や国連で働いていたりとユニークなキャリアをお持ちです。まずはキャリアのスタート地点のお話をお伺いしたいのですが、川内さんは大学生の頃に就職活動をされたんでしょうか?

川内:私、就職活動はしなかったんです。日大の芸術学部だったので、大学の校風的に血眼に就職活動をしている人もいなかった。だから大学を出て、半年くらいぼんやりしていて。結構あるんですよね、人生でぼんやりしている時期。

濱田:それでその後アメリカの大学院に行かれるんですよね?

川内:そうです。このまま社会に入っていく気がしなくて、就職するって考えられなかった。なんとなく外国へ行きたいという気持ちがあったからアメリカの大学院へ行きました。20歳の時に2ヶ月間アメリカへ行ったことがあったし、英語を話すならアメリカかなって。結構適当な感じだったんです(笑)。

濱田:計画的に選んだわけじゃないんですね(笑)。それで卒業されてからはどうされたんでしょうか?

川内:大学院を出たのがちょうど25歳くらいの時で、さすがに就職しないといけないって思っていたんですけど、特にこういうところに就職したいというのはなかったんですね。それくらいわたしは何も考えていなかったんです(笑)。クリスマス休暇の時に、ニューヨークへ遊びに行っていたらルームメイトが電話をしてきて、ちょうどインターンをしていた会社が日本人の職員を捜しているからそこを受けてみたら?って言うんですよ。ニューヨークにいたし、どうしようかと悩んだんですけど、友人が履歴書とかをメールで届けてくれて。そしたら書類選考が通って面接を受けることになり、ニューヨークから戻ってすぐに面接を受けたら、その場で採用されたんです。

濱田:トントン拍子で話が進んだんですね。その受かった会社はどんな会社だったんですか?

川内:その会社はコンサルティング会社だったんですけど、国際機関の仕事を受注している会社でした。幸運なことに最初から大きなプロジェクトに関われたんですね。それで色々な仕事のイロハを覚えました。まずその会社で3年働いて、そこで働いている時に縁のあった日本の企業に転職して、東京で3年間働きました。その3年目が終わった後に半年くらいぶらぶらしてましたね。とても良い会社だったんですけど、激務で大変だったので、「ここで働いていたら人生終わるかも」と思って辞めたんです。ちょうど31歳の時ですね。

誰かに押し付けられている訳ではなく、自分で人生を決めている。

川内:1社目の時によくプロジェクトをしていて馴染みがあったから、国際機関で働くというのは現実的なオプションとしてあったんです。そんな時にフランスの国連のサイトで求人を見つけて、「自分にも出来るようなタイプの仕事かもしれない」と思ってアプライしました。ところが、国連というのは何でも時間がかかるものなんですね。だから最初に履歴書を送ってから面接に呼ばれるまで2年くらいかかりました。正直、面接に呼ばれた時は応募したことを忘れていたくらい(笑)。まぁそれで運良く採用されて、そこから6年間パリで働きました。

濱田:そのパリにいる間に出会った人たちとの話から生まれたのが、「パリでメシを食う。」なんですね。あの本に出てくる日本人の方たちって、周りの目を気にせず自分らしく生きているし、人生を肯定してすごく楽しんでいる感じがしました。でもそういう人って日本じゃ少ないし、いつも人生に悶々と悩んでいるような人が多い気がします。

川内:「これでいいのかな?」と悶々と悩んでいる人も、誰かに押し付けられている訳ではなく、自分で人生を決めている訳ですよね。悶々としているということは、自分はやりたくないのに外からの理由でそれを選んでしまっているのかもしれない。例えば「この会社は有名だ」っていう世間の目とか、「将来を考えるとこっちが良い」っていう周りの声とか。でも結局そういう風に決めるとすごく疲れる。本当はみんな、自分がどんな国でどんな風に働いていたら心地いいのかわかっているはずなんだけど、子供の頃の経験やその後の色んな影響でそういった思いに蓋をされているんだと思う。

色んな人生を歩んできたからこそ書けるものもある。

濱田:川内さんのキャリアはライターとはあまり関係なさそうなところからスタートしていますが、小さい頃から書くことは好きだったんですが?

川内:中学生くらいの時から文章を書きたいという思いがありましたね。その時はSF小説が流行っていたので、そういうのを書いていました。高校に入ったら映画が好きになって、映画の脚本を書いて自分で撮るようになったんです。友達を15人くらい集めて、映画サークルみたいな感じで活動していました。でも大学に入ったら映画を撮るという情熱が冷めちゃって。書きたい、表現したいっていう気持ちはあったんだけど、特に何もせずぶらぶらしているうちに、4年間過ぎてしまった。でも大学院で国際政治や社会運動について勉強するうちに、そういう方が面白くなってしまったんです。

濱田:そこから何がきっかけでまた書きたいと思うようになったんですか?

川内:パリに行ったことがきっかけですね。国連で働いていた頃はたくさん時間があったんですよ。仕事も6時には終わるし、土日も休めるし、時間がたくさん出来た。さらにパリはすれ違う人のほとんどがアーティストってくらい、アーティストが多い町。アーティストと言いながら何をしているのかよく分からない人もいるんだけど(笑)。みんなで何かを作ったり、プロジェクトをやったりしているのを羨ましく思うようになって。「あれ、でも今なら時間があるから私にも色々できるな」って気が付いて、また書きはじめたんです。

濱田:ということは昔からライターを目指していたわけではないんですね。

川内:うん、私はあんまり計画を立てて行動する方じゃないんですね。道筋ばかり立ててしまうと、そうじゃなかった時の人生が大変。「こういう風になりたいな」と頭で描くのは良いんだけど、それを計画としてきっちり考えない方が良いんじゃないかな。目標を持って頑張れってよく言いますけど、そうじゃなかった時にがっくりするような計画は立てない方が幸せになれるんじゃないかな。その時その時に、「あ、こっちよさそう」みたいに感覚的にいった方が良い方向に進みそう。多分、世の中で言われていることと逆だと思うんですけど(笑)。

濱田:確かに「夢の実現のために具体的な目標を立てろ」って言われることならよくあります。

川内:憧れや夢って絶対に必要だし、持っていた方が良いと思う。でもそれまでの道筋って色んなことがある。大学受験のようにわかりやすいものだったら、勉強すればいいですよね。でも働くとなると、社会ってもっと動いていますから。色んな人がいて、自分の人生もどうなるか分からない。そういうケオティックなところにいるから、道はまっすぐに進んでいかない。もし私がライターになりたいという夢を20歳の時に持っていたら、25歳くらいでなれたかもしれない。でも、色んな人生を歩んできたからこそ書けるものもあるんです。だからいつどのタイミングで夢を叶えたいかっていうことに関しては焦らなくていいんじゃないかな。

濱田:それでは最後に25歳の人へのメッセージをお願いします!

川内:すごく尊敬している人生の先輩の座右の銘で、自分の座右の銘にもしているんですけど、「人生万事塞翁が馬」。悪いことが良いことに繋がるかもしれないし、良いことが悪いことに繋がるかもしれない。この瞬間は悪いと思っていることでも、次の瞬間には別の意味になることだってある。切羽詰まらず、追いつめすぎずにいれば、自分に余裕が出来るはず。真面目に考えすぎてしまうと疲れてしまうから。全てのことを考え過ぎずに人生を大きく、楽しく捉えて欲しいですね。

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