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フリーランス – 25zine http://25zine.com 25zineは、25歳から先の人生を考えるインタビューマガジンです。 Tue, 23 Oct 2018 09:25:39 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=4.8.24 川内有緒「誰かに押し付けられている訳ではなく、自分で人生を決めている」 http://25zine.com/ario-kawauchi/ http://25zine.com/ario-kawauchi/#respond Thu, 08 Aug 2013 07:20:04 +0000 http://25zine.com/?p=547 大学を出て、半年くらいぼんやりしていた。

濱田:川内さんは「パリでメシを食う。」「バウルを探して」とこれまでに2冊の本を書かれていますが、以前はコンサルティング会社や国連で働いていたりとユニークなキャリアをお持ちです。まずはキャリアのスタート地点のお話をお伺いしたいのですが、川内さんは大学生の頃に就職活動をされたんでしょうか?

川内:私、就職活動はしなかったんです。日大の芸術学部だったので、大学の校風的に血眼に就職活動をしている人もいなかった。だから大学を出て、半年くらいぼんやりしていて。結構あるんですよね、人生でぼんやりしている時期。

濱田:それでその後アメリカの大学院に行かれるんですよね?

川内:そうです。このまま社会に入っていく気がしなくて、就職するって考えられなかった。なんとなく外国へ行きたいという気持ちがあったからアメリカの大学院へ行きました。20歳の時に2ヶ月間アメリカへ行ったことがあったし、英語を話すならアメリカかなって。結構適当な感じだったんです(笑)。

濱田:計画的に選んだわけじゃないんですね(笑)。それで卒業されてからはどうされたんでしょうか?

川内:大学院を出たのがちょうど25歳くらいの時で、さすがに就職しないといけないって思っていたんですけど、特にこういうところに就職したいというのはなかったんですね。それくらいわたしは何も考えていなかったんです(笑)。クリスマス休暇の時に、ニューヨークへ遊びに行っていたらルームメイトが電話をしてきて、ちょうどインターンをしていた会社が日本人の職員を捜しているからそこを受けてみたら?って言うんですよ。ニューヨークにいたし、どうしようかと悩んだんですけど、友人が履歴書とかをメールで届けてくれて。そしたら書類選考が通って面接を受けることになり、ニューヨークから戻ってすぐに面接を受けたら、その場で採用されたんです。

濱田:トントン拍子で話が進んだんですね。その受かった会社はどんな会社だったんですか?

川内:その会社はコンサルティング会社だったんですけど、国際機関の仕事を受注している会社でした。幸運なことに最初から大きなプロジェクトに関われたんですね。それで色々な仕事のイロハを覚えました。まずその会社で3年働いて、そこで働いている時に縁のあった日本の企業に転職して、東京で3年間働きました。その3年目が終わった後に半年くらいぶらぶらしてましたね。とても良い会社だったんですけど、激務で大変だったので、「ここで働いていたら人生終わるかも」と思って辞めたんです。ちょうど31歳の時ですね。

誰かに押し付けられている訳ではなく、自分で人生を決めている。

川内:1社目の時によくプロジェクトをしていて馴染みがあったから、国際機関で働くというのは現実的なオプションとしてあったんです。そんな時にフランスの国連のサイトで求人を見つけて、「自分にも出来るようなタイプの仕事かもしれない」と思ってアプライしました。ところが、国連というのは何でも時間がかかるものなんですね。だから最初に履歴書を送ってから面接に呼ばれるまで2年くらいかかりました。正直、面接に呼ばれた時は応募したことを忘れていたくらい(笑)。まぁそれで運良く採用されて、そこから6年間パリで働きました。

濱田:そのパリにいる間に出会った人たちとの話から生まれたのが、「パリでメシを食う。」なんですね。あの本に出てくる日本人の方たちって、周りの目を気にせず自分らしく生きているし、人生を肯定してすごく楽しんでいる感じがしました。でもそういう人って日本じゃ少ないし、いつも人生に悶々と悩んでいるような人が多い気がします。

川内:「これでいいのかな?」と悶々と悩んでいる人も、誰かに押し付けられている訳ではなく、自分で人生を決めている訳ですよね。悶々としているということは、自分はやりたくないのに外からの理由でそれを選んでしまっているのかもしれない。例えば「この会社は有名だ」っていう世間の目とか、「将来を考えるとこっちが良い」っていう周りの声とか。でも結局そういう風に決めるとすごく疲れる。本当はみんな、自分がどんな国でどんな風に働いていたら心地いいのかわかっているはずなんだけど、子供の頃の経験やその後の色んな影響でそういった思いに蓋をされているんだと思う。

色んな人生を歩んできたからこそ書けるものもある。

濱田:川内さんのキャリアはライターとはあまり関係なさそうなところからスタートしていますが、小さい頃から書くことは好きだったんですが?

川内:中学生くらいの時から文章を書きたいという思いがありましたね。その時はSF小説が流行っていたので、そういうのを書いていました。高校に入ったら映画が好きになって、映画の脚本を書いて自分で撮るようになったんです。友達を15人くらい集めて、映画サークルみたいな感じで活動していました。でも大学に入ったら映画を撮るという情熱が冷めちゃって。書きたい、表現したいっていう気持ちはあったんだけど、特に何もせずぶらぶらしているうちに、4年間過ぎてしまった。でも大学院で国際政治や社会運動について勉強するうちに、そういう方が面白くなってしまったんです。

濱田:そこから何がきっかけでまた書きたいと思うようになったんですか?

川内:パリに行ったことがきっかけですね。国連で働いていた頃はたくさん時間があったんですよ。仕事も6時には終わるし、土日も休めるし、時間がたくさん出来た。さらにパリはすれ違う人のほとんどがアーティストってくらい、アーティストが多い町。アーティストと言いながら何をしているのかよく分からない人もいるんだけど(笑)。みんなで何かを作ったり、プロジェクトをやったりしているのを羨ましく思うようになって。「あれ、でも今なら時間があるから私にも色々できるな」って気が付いて、また書きはじめたんです。

濱田:ということは昔からライターを目指していたわけではないんですね。

川内:うん、私はあんまり計画を立てて行動する方じゃないんですね。道筋ばかり立ててしまうと、そうじゃなかった時の人生が大変。「こういう風になりたいな」と頭で描くのは良いんだけど、それを計画としてきっちり考えない方が良いんじゃないかな。目標を持って頑張れってよく言いますけど、そうじゃなかった時にがっくりするような計画は立てない方が幸せになれるんじゃないかな。その時その時に、「あ、こっちよさそう」みたいに感覚的にいった方が良い方向に進みそう。多分、世の中で言われていることと逆だと思うんですけど(笑)。

濱田:確かに「夢の実現のために具体的な目標を立てろ」って言われることならよくあります。

川内:憧れや夢って絶対に必要だし、持っていた方が良いと思う。でもそれまでの道筋って色んなことがある。大学受験のようにわかりやすいものだったら、勉強すればいいですよね。でも働くとなると、社会ってもっと動いていますから。色んな人がいて、自分の人生もどうなるか分からない。そういうケオティックなところにいるから、道はまっすぐに進んでいかない。もし私がライターになりたいという夢を20歳の時に持っていたら、25歳くらいでなれたかもしれない。でも、色んな人生を歩んできたからこそ書けるものもあるんです。だからいつどのタイミングで夢を叶えたいかっていうことに関しては焦らなくていいんじゃないかな。

濱田:それでは最後に25歳の人へのメッセージをお願いします!

川内:すごく尊敬している人生の先輩の座右の銘で、自分の座右の銘にもしているんですけど、「人生万事塞翁が馬」。悪いことが良いことに繋がるかもしれないし、良いことが悪いことに繋がるかもしれない。この瞬間は悪いと思っていることでも、次の瞬間には別の意味になることだってある。切羽詰まらず、追いつめすぎずにいれば、自分に余裕が出来るはず。真面目に考えすぎてしまうと疲れてしまうから。全てのことを考え過ぎずに人生を大きく、楽しく捉えて欲しいですね。

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米田智彦「やりたいことと仕事が繋がった頃には30歳になっていた」 http://25zine.com/tomohiko-yoneda/ http://25zine.com/tomohiko-yoneda/#respond Sat, 11 May 2013 14:32:39 +0000 http://25zine.com/?p=307 (ダイヤモンド社)を出版。http://nomadtokyo.com/]]> 一生のうちに可能な限りたくさんの「生」を経験したい

濱田:まずは米田さんが25歳の頃どんなことをしていたのか教えてください。

米田:25歳の頃は、報道機関の時事通信の社会部でアシスタントとしてアルバイトをするフリーターでした。当時僕は音楽をやっていて、大学を一浪一留して卒業したんだけど、在学中にとあるレコード会社から声が掛かっていたので、ミュージシャンになろうと思っていたんですよね。連絡をくれたレコード会社の人は、僕が当時日本では一番かっこいいと思っていたレーベルのディレクターだったの。「ここで出せないんだったら音楽を辞めよう」と思っていたら、ちょうど声を掛けてもらえたんですね。それが大学卒業するかしないかの時だったから、「これは運命かもしれない。やるしかない」と思って就職しなかった。

 でも音楽で食べていけるわけじゃなかったし、大学を出たからとりあえず働かなきゃと思って何社か自分が好きな雑誌を出している出版社のアルバイトの面接を受けたんだけど、全然受からない。経験もないし、学生じゃないから使いづらいわけです。どうしようかなって考えたときに、実は僕の父親が新聞記者だったから、まぁ新聞もありかなと思うようになって。 ちょうど時事通信で募集していたから応募して、アルバイトとして働き始めた。

濱田:そうだったんですね。ミュージシャンを目指していた米田さんが、その後どうして編集者として仕事をするようになったんでしょうか?

米田:昼は働いて、夜は稼いだお金で音楽作ってっていうのを4年間続けていたんだけど、なかなかデビューさせてもらえなくて、音楽の道は上手くいかなかったんだよね。それで30歳になる前に社会に出なければ俺はダメになるって思っていたから、28歳の時に会社を辞めて、音楽も辞めて、今まで付き合っていた音楽友達やバンドメンバーとの繋がりも全部切ったの。で、音楽以外だと本や雑誌が好きだから、編集の仕事をやれないかなって思うようになった。

 僕は音楽以外にも好きなことが色々あったんですね。政治、経済、文学、アート、映画。雑誌編集者って、グルメやファッションの特集も出来れば、経営者のインタビューも出来る。こんな面白い仕事はないって思って。 一つのことを突き詰める人生も美しいかもしれないけど、一生のうちにたくさんのことを経験したいんだよね。取材という名目があれば色んな人に会えるし、その人の秘密みたいなことをぽろっと話してもらえたりする。しかも資格とか要らない。雑誌編集者は色んな物に興味をもっていろと言われるジャンルだから、自分にはぴったりだと思って、こういう仕事がしたいと思っていた。でもここでも職歴ないから出版社には雇ってもらえなかったんだよね。それで結局、バイオインフォマティックスっていうバイオとスーパーコンピューターの研究所で広報の仕事をしてた。

濱田:どうして編集の仕事を目指していたのにバイオの世界へ……(笑)?

米田:当時のアメリカ大統領だったクリントンが、人のDNAの全てを解明するという有名な「ゲノム宣言」というのを発表したのね。ゲノムを全部解明して、アメリカは創薬の分野で世界をリードするって。僕はこのニュースにかなり衝撃を受けて、ITと並んで、バイオは21世紀にものすごい産業になると思った。

 その頃に出来たのが、僕が働いていたバイオの研究所。普通は地方公務員試験とか受かってないとスタッフにはなれないんだけど、出来たばかりだから一般の人からも非常勤という形で事務総務のスタッフの募集をしていて。でも俺は別に経理の仕事をしたいわけじゃないから、 「ここはこれから世界に向かって日本の技術力や研究成果を発信をしていく拠点になる。だからWebサイトを作ったりとか、ニュースレターを作ったり、プロモーションビデオを作ったり、広報的な仕事が必要なんじゃないですか?」って事務職の面接なのに、周到なプレゼンしたんです。面接を担当した所長とかはぽかーんとしてた(笑)。でも、「君みたいな人が来たのははじめてだよ、面白いね」って言ってくれて、そのお台場のセンターで1年くらい働くことになったの。役所だからお堅い仕事だったけど、センターを紹介するニュースレターを作ったり、サイトを作ったり、見学者の案内や通訳をやったりしてた。

 でも、やっぱり自分の中でこれはステップだなと思っていたんだよね。僕は研究者じゃないから、これをずっとやっていてはいけないってことに半年ぐらいで気付いて、やっぱり雑誌の仕事をしたいと思っていた。

やりたいことと仕事が繋がった頃には30歳になっていた

濱田:そこからどうやって雑誌の仕事が出来るようになったんですか?

米田:プライベートでハマっていた格闘技がきっかけだった。バンドの友達も全部切っちゃったし、新聞社の友達とも連絡を取らなくなっちゃったからやることがなくって、週末の夜に後楽園ホールでプロレスとか格闘技を観るようになったの。総合格闘技とK-1がちょうどブームになる前だったんだけど、それが凄く面白くて。本当に夢中になって毎週のように会場に行くようになった頃が、ちょうどスポーツ専門サイトが出始めた時期だった。そのうちにそのサイトをやっている人と仲良くなって、「選手の談話とか取ってみる?」って誘われて、すぐに「やります!」って言った。ここでようやくやりたいことと仕事というものが繋がったんだよね。それがきっかけで業界の人にも繋がりが出来て、出版社に誘ってもらうことが出来た。その頃はもう30歳になっていた。

やりたいことはいくつもやっていいし、だめでも戻ってくれば良い

濱田:今の仕事をやるようになるまで、ものすごく色んなことがあったんですね。

米田: うん、曲がりくねっていて、一直線じゃなかった。最初はミュージシャンになろうとしたけど上手くいかなくて、マスコミに勤めて、辞めて、日々悶々とした。何も見えない時期があって、特に音楽と社会部を辞めた28歳の時はやることがなくて、ただ走っていた。やりたいこともお金もないし、走るしかなかったんだよね(苦笑)。でも昼に走っていると、「こいつはなんでまっ昼間から走っているんだ?」って思われるんじゃないかと思う自意識があって、夜にこっそり走っていた。それもずっと走るの、2、3時間くらい。歩いたり、走ったりしてへとへとになってすぐ眠れるようにするために。その時は友達もひとりもいないし、音楽もしていないし、なんかよくわからないバイオっていう分野に来てしまって、本当に星しか友達がいなかった。星と会話してたもん(笑)。「あー、今日もいますね」って。星と相談してた。俺どうなるんだろ、俺の人生に収拾つくのかなって。「あーそうか、これがどん底っていうんだ」って思っていた。だって星しか友達がいないんだよ(笑)。

濱田:なかなか普通ではありえない人生ですよね(笑)。

米田:そう、だから今でも、現在までの道のりを話してもなかなか理解されない。一直線じゃないから、何がやりたいのかよくわからないとか、やっていることがバラバラで理解出来ないとか言われたりする。自分の中では、やりたいことをどうにかして仕事にしたいと思ってきたことに変わりはなかったんですけどね。でも、お医者さんになるとか、建築家になりたくて建築家のアシスタントからやったとか、まっすぐな道じゃなかったからね。

 でも別に、一つのことに一直線じゃなくたっていい。バスケット界のスーパースターのマイケル・ジョーダンは、若い人は知らないかもしれないけど、実は一時、野球をやっていたんですよ。バスケを辞めた後にメジャーリーグに入ろうとしていた。なぜかというと、彼の少年時代のもう一つの夢がメジャーリーガーだったから。さすがにもう歳だったから野球選手としてはだめだったけど、夢に生きたその魂がかっこいいよね。で、メジャーリーグに挑戦した後に、ジョーダンはバスケに戻ってきているんですよ。だからやりたいことはいくつもやっていいし、ダメでも戻ってくればいいと思うんですよね。

濱田:私も一直線じゃない道を進んでいるので心に染みます……。では最後に今25歳の人に向けてメッセージをお願いします。

米田:25歳の時はとにかく模索してみればいいと思います。ひとつのことにがむしゃらに取り組むのもいいけど、いくつもやってみるのもありなんじゃないかな。釣り糸を垂らさないと魚は捕れないし、打席に立たないとホームランは打てない。僕はなるべくたくさんのことを生きているうちに体験したいって思いはずっとあった。だから、今の編集という仕事は、たくさんの人の人生に出会えることが一番の喜びですね。

 それから、エリートとか強い人だけ勝つというのは、社会の一つの側面でしかなくて、それだけが良しとされる社会のあり方は僕は違うと思うし、固定観念をとりのぞけば、やり方はいくらでもある。英語が出来る、勉強ができるっていう人だけが生きていける世の中っておかしいでしょう。仕事なんていくらでもある。グローバル化とかのイメージに捕われないで、一度きりの人生、色んなことをを勝手にやってしまえばいいと思います。それをあきらめずに続けていれば、どこかに引っかかる。だって、社会が悪いと言ったり、他人を批判したり、暗いこと言っても自分の現状は何も変わらないからさ。

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